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第9章 房総文明と教育

房総文明と市民皆学制度

本章では、房総文明の価値観を支えるうえで最も重要な働きをすると思われる教育をテーマとして考察していきます。なぜ教育が最も重要な働きをするのか、それは房総文明の超価値である「環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」ことに関係します。第7章で論じたように、房総文明は日本文明に対する超価値を提起していくことで、2C論からその文明の影響度の拡大を図っていきます。その戦略の一つとして、ディコンポーズ・イノベーション戦略を提案してきましたが、そうした房総文明の超価値や戦略が機能するためにも房総文明における教育制度というのが極めて重要かつ不可欠な要素になります。その理由は大きく三つあります。

一つ目は、房総文明における市民に2階層の知識レイヤーが必要なことです。

第1階層は、日本文明を含む様々な文明圏を構成している思想とその産物を理解し、文明を基礎づけている様々な科学や学問の基礎的な知識のレイヤーです。これは、日本国の義務教育の中でも養成されていることになります。

そして、房総文明における第2階層は、そうした日本文明を含む様々な文明圏を構成している思想とその産物に対する超価値をどのように築くかを学ぶことです。さらに、現在の日本文明がイノベーションを起こすたびに排出する文明ごみをどのように分解し利用していくか、人間をどのように再生していくか、思想のデジタル房総文明とそれを管理するデジタルガバメントはどのように機能しているのか、そういった様々なことを学ぶ必要があります。

つまり端的に言えば、房総文明の市民は第1階層で日本文明を含む諸文明の知識を、その上にある第2階層で房総文明の新しい知識を学ぶ必要があるということです。単純に考えると、既存の文明圏における市民よりも2倍以上知識を習得する努力をしなくてはならないことになります。

二つ目は、ディコンポーズ・イノベーションが日本文明のイノベーション活動の逆手をとって展開していることに関係しますが、イノベーションは不断に続く日本文明内の活動ですので、当然ながらディコンポーズ・イノベーションも不断に続く活動にならなくてはなりません。そのため、房総文明の市民は常に学び続けなくてはならない宿命にあるということです。話を単純にするために、文明ごみとして、現代日本文明の中で排出される食品の廃棄物を考えてみましょう。これが排出されるのは、日本の食品流通ビジネスの中では仕方がないこと、やむを得ないことと考えられています。もし、房総文明の市民がこの文明ごみたる食品廃棄物をなんらかの形でディコンポーズ・イノベーションに利用しようと考えた場合、可能な限り急いで、もっと言えば日本文明よりも先回りして資源の活用を考えていかなくてはなりません。なぜならば、そうした食品廃棄物は時間を経るごとに劣化し、腐敗していき、利用できなくなったり、環境を悪化させる要因になってしまうからです。食品が一番わかりやすい例ですが、これは他のビジネス資源においても基本的に変わらず、時間の経過は基本的には資源の劣化や価値の低下をもたらし、ひいては環境を悪化させる原因になりえます。そのために、房総文明は常に日本文明の最先端にキャッチアップし、それをディコンポーズ(分解発酵)する努力と研究をし続けなくてはならないのです。

三つ目は、4C論から来る論理的結論で、文明を移ってくる移民を受け入れるための教育的措置になります。旧文明から新文明へ移ってくる人たちは当然ながら最初は、旧文明の教育から物事をかんがえてしまいがちになります。新文明はそうした人たちの思想の移行作業をスムーズに進められるようにならなければなりません。したがって、移ってきた人々はどのような年代であっても、新文明の考え方を学ぶ教育的義務と権利を持つようにしなくてはならないのです。

こうした3つの大きな理由により、房総文明の市民は、他の文明圏よりもはるかに教育や教養について負担と責任が大きく発生します。このことから筆者が提案するのが、房総文明における市民皆学制度という教育システムです。

日本でも太平洋戦争敗戦までは国民皆兵制度が存在していました。市民皆学制度は、兵隊にとるのではなく、教育に市民のすべてを関与させる制度と考えてもらうとわかりやすいと思います。

市民皆学制度は教育に対する市民の責任並びに権利を規定するものであり、それを実行していくためのシステムです。房総文明の市民はこれにより、生まれてから死ぬまで、学び、そして教えるという責任と権利を得ます。そのため、たとえ、ある企業に雇用されている者でも、家庭で子育てをしている者でも、あるいは退職し余生を楽しむ者でも、そのすべての人が学び、教える責任と権利があると制度化していくのです。3C論より、文明は思想をデジタル化したものがますます求められていきます。その結果、そうしたデジタル化した思想を常に摂取し続け、あるいは思想をデジタル化する作業をし続ける人材が必要になります。それを房総文明の市民は一人一人が文明の担い手として行うというのが、市民皆学制度の趣旨です。逆に言えば、房総文明における市民の誰一人もそれをおろそかにしては房総文明の社会は成り立ちえないことになるからです。市民皆学制度を実現するためには様々な障壁が存在するでしょう。特に現行の法律と諸制度とは相いれない規定が存在することが予想されます。そのために、第8章で想定した房総文明デジタルガバメントのような存在が必要になってくるのです。

房総文明において科学は環境と地球を良くするために使われなければならない

自然科学、社会科学、人文科学…といったように、教育のセグメントは主に科学に結びついた体系を持っています。基本的に、アカデミズム(大学などの研究機関)は科学の中のそれぞれのジャンルにおいて、コミュニティーを形成しています。特に日本のアカデミズム・コミュニティーは日本文明で定義した「自己が所属するコミュニティーを良くすることに価値を置く」ことが海外に比べ顕著で、その点でも現在のアカデミズム・コミュニティーは日本文明の教育システムを支える要素になっているといえるでしょう。

しかし、房総文明では「環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」ことから、「所属するコミュニティーを良くする」というそれまでの考え方とは異なるものです。このため、房総文明内における科学の位置づけは再考する必要があります。上記の房総文明の定義に照らして、科学の姿は環境と地球を良くするために使われなければなりません。科学の目的自体に変更が生じるのです。これは簡単なことに思えて、非常に重要で基幹に迫るシステムの変更を要請するものです。近代科学は、軍需や産業界、そして国家からの要請によって発展した面が多々あります。それにこたえることによって、アカデミズム・コミュニティーもまた発展を享受できたからです。しかし、房総文明でのアカデミズム・コミュニティーの第一の存在意義は「環境と地球を良くする」ことに再定義されます。したがって、それまでのやり方や考え方を一度崩して、もう一度基本から積み上げるようなことも出てくるでしょう。当然ながら、国家と大学機関から高等学校、中学校、小学校へと連なる従来の教育システムにも変更が生じます。房総市民の皆学制度は、従来の年齢に基づいた教育にシステムにはなじみません。そのために、教育システムの再構築を必要とするのです。

房総文明と思想のデジタル化機関

では、どのような教育システムを構築するのかという点について、2C論と3C論の組み合わせから、房総文明は思想のデジタル文明体として教育にも機能を持たせなくてはなりません。市民皆学制度のもと、房総文明の思想はデジタル化の過程を市民のすべてが参加していくことにより補強していく必要があります。房総文明は「環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」ために、思想のデジタル化の過程でそうしたコミュニティーが個別に立ち上がっていくことになり、そうしたコミュニティーがさらに人を育成していきます。市民皆学制度はこうした教育の循環的活動により支えられ、また市民皆学制度によって思想のデジタル化は補強される循環が常に回るということになります。このように考えていくと、市民皆学制度自体が房総文明における思想のデジタル化機関と考えることもできます。従来型の国家と大学機関に連なる教育システムは垂直的な統合をアカデミズム・コミュニティーにもたらすものでした。しかし、房総文明ではそうした垂直統合ではなく、粘菌の集合体のような有機的で分散集合的なアカデミズム・コミュニティーの在り方が求められます。

房総文明と歴史

もうひとつ、4C論に基づくと、歴史学の延長線上にある歴史教育についても極めて重大な変更が生じることを論じておかなくてはなりません。この問題はある種の懸念が発生するため、慎重に議論する必要があることをあらかじめ注意しておきます。

従来、近代国家における歴史教育は「国民」という存在を育てることを第一の目的としていました。日本においても、明治時代以降の歴史教育は基本的にこの延長線上に作られているものです。その後、敗戦等の契機を経て、コミュニティーベイスドの価値感を育てることに目的が変更されたものの、一番根底のところでは日本の歴史教育が「日本国民」を養成するために使用されていることは否めません。こうしたことは「日本文明という枠」によってもたらされるとも考えることができます。なぜならば、日本文明とは「自己が所属するコミュニティーを良くすることに価値を置く」ものであり、当然ながら歴史教育も自己のコミュニティーを良くしていくことを志向するものとなっていくからです。

第6章の4C論に基づくと、現代社会においては思想の方が「文明の枠」を逆に超え始めており、市民が文明を選択できる時代が訪れようとしています。その文明選択の条件として、市民が文明を選択できる判断材料が提供されなくてはなりません。しかし、従来型の歴史教育ではこうした機会は非常に限定されており、市民がその判断材料を得るための機会すら自発的に探し求めなくてはなりません。そのために、市民皆学制度のもと得られる結論として、市民には新しいスタイルの歴史教育の機会が必要になることが出てきます。この点について、従来型日本文明的歴史教育システムと、新しい房総文明における歴史教育システムに競合する場面が発生してくるのです。

房総文明の思想の出発点は「房総文明は環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」というものですから、広い意味で人文科学に属する歴史学も「環境と地球を良くする」という目的のために使われなくてはなりません。この問題意識の前提には、従来型の文明がいかに「環境と地球を悪くしてきたか」という逆命題が潜んでいます。どうしてもその議論を経なくては、新しい房総文明の思想がなぜ必要かという話ができないため、この論争は避けることができません。そのために、従来型のコミュニティーベイスドに価値を置く歴史観の元では、房総文明の思想は危険視される可能性が高まるのです。 さらに危惧されることは、従来型の歴史教育の結果、自己が所属するコミュニティーというアイデンティティー意識と、自己が所属するコミュニティーに尽くさなくてはいけないというロイヤリティー意識とつながっていることです。筆者は人々が自然とこのような意識を持つこと自体は否定しません。しかし、そうした人々のアイデンティティーやロイヤリティーの意識が、逆にコミュニティーを維持するために利用されているとしたら、これは房総文明の下では明確に変更と修正を迫られるものとなっていくことをあらかじめ告知しておかなくてはならないのです。この点については、そうしたコミュニティーの維持がドグマ(教義)のようになっている人々にとっては受け入れがたいものでしょう。そのために、房総文明の思想を広めるためには、覚悟を決めて、理を唱え、説明の限りを尽くして、人々に新しい時代的思想の必要性を訴えていくことが必要になるでしょう。

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