房総文明は国家を必要としない

さて、本章では、房総文明を樹立する際に問題になる様々なことをあらかじめ論じておきたいと思います。

一番目の問題は、房総文明は国家を必要とするかという問題です。このことは、日本文明が日本国とほぼ領域を一致するという世界の中でも珍しい類型であるために特に問題となります。

この問題提起には、2つの点から、房総文明が国家を必要としない理由を説明していきます。

まず、1つ目の点はそもそも文明が必ずしも国家である必要はないという歴史的な理由からです。古代文明から現代にいたるまで、人間の歴史の中には様々な文明が発生してきたと考えられていますが、そのどれ一つとっても単一の国家を文明と同義には扱っておりません。このことは、国家が固有の領土というハードを必要とするのに対して、文明は文明民の存在と文明としての思想というソフトで構成されるからです。ただし、日本文明を独自に扱う識者の中には、日本国の領土をほぼ日本文明と同一として扱う者がいますが、それはたまたま領域が一致しているのみと考えることが自然でしょう。このことから、そもそも文明が国家と同一である必要はないので、房総文明が国家を必要としないという結論を導き出すことができます。

そして、もう一つの点が、房総文明の思想が国家主権概念を必要としないというものです。近代にいたって、文明は近代的国家思想と産業革命を経た経済合理性の結論として、観念的な人間の結合やコミュニティーだったはずのものを国家主権概念と結びつけた発展の仕方をしてきますが、房総文明はそうした価値観とは次元の違う「地球と環境を良くするコミュニティーに価値を置く」文明であり、これが超価値となるため国家主権概念のような固定的観念を必要としません。このことは、3C論でも論じてきましたが、思想のデジタル文明体である房総文明には非常に重要なことになります。

上記2点から、房総文明は、近代国家で必要不可欠と思われた国家主権概念を必要とせず、房総文明は国家である必要はありません。

房総文明は日本国家に必要性を認識されなければならない

では、もしも房総文明がその文明影響度を拡大させることに成功し、房総文明が広く認知される状況になったと仮定した場合、日本国という国家とどのような関係になるでしょうか。気をつけなくてはならないことは、2C論に基づき日本文明に寄生する房総文明の在り方を考えた場合に、日本国家から何らかの排除や排斥もしくは規制や弾圧をされるような事態は避けなければならないことです。

そうすると、逆に考えるのであれば、房総文明は日本国家にとっても必要と思われるのが一番の得策ということになります。要するに、日本国家にとっては日本文明も房総文明も両方必要と認識されるようになればベストということになります。日本文明と房総文明を二項対立のような状況にとらえるのではなく、それぞれが同等かつ並列的な関係であるととらえてもらうのが一番なのです。

しかし、房総文明の思想を実現するためには、様々な分野において既存の考え方やルール、そして道徳的価値観が日本文明と競合することは容易に想像できます。その際に、どう調整したらよいのか、それが房総文明の樹立を考えたうえで必要不可欠な議論になります。

房総文明とデジタルガバメント

筆者が現在考えているところでは、特に教育と経済について、房総文明と日本文明との大きな差異が生じると考えています。それらの差異については次章以降で詳しく論じますが、現在の教育と経済などのかじ取りを日本政府並びにその機関が行っている現状を考えれば、当然ながら房総文明の超価値、思想はコンフリクト(紛争)の種を作り出すのは自然なことです。

現在の社会制度の延長線上に房総文明の黎明期から勃興期を考えるのであれば、広範囲な地方自治や経済特区のような考え方の中で、房総文明の思想の折り合いをつけていくことが考えられます。つまり、現在存在している様々な法規則に基づき、決められた枠の中での自由な活動を行うことです。劇的に物事を変えようとすると、必ず社会的反動が大きくなるもので、それは社会的な混乱を招きます。ですので、ひとまずは日本の社会の法規則並びに慣行に従いながらも、少しずつそうした法規則や慣行を変えていくような努力をしていくのが、実は一番近道かもしれません。そうした穏便な社会の変え方の有効性を重視しつつ、ここではもう少し違った考えも提起してみたいと思います。

それは、房総文明の中での諸活動を様々にマネジメントするデジタルガバメントという存在を新たに作ることです。著名な社会学者であるマクス・ヴェーバーが指摘した通り、「政府」の存在は官僚制度を基本にします。社会的な身分を保証される官僚制度は、古くから優秀な人材を囲い込む制度として社会的に機能してもきました。一方で、第2章を思い起こして頂きたいのですが、日本の自治体や国の官僚制度は会社型コミュニティーを形成しており、時に自らの属している省庁や自治体の利益を最優先させるために国益すら損ねる場合もあります。また、第3章で示している通り、官僚となった人々の間でも環境問題は組織の中で深刻な亀裂をもたらしており、それは各種の政策立案の際にも現れています。たとえば、一方で原子力発電に頼らない自然エネルギーの促進を進める政策を進めるとともに、もう一方では原子力発電がなくてはとても難しい電力需要を作り出すような政策を進めることです。一枚岩になれず、二兎を追う政策は結局のところ中途半端なものとなってしまい、無駄と失敗が多いものになってしまいます。結局のところ、政策もそれを作り出す人間の理念や思想に委ねられるため、理念と思想に極端な亀裂がある場合、公官庁というコミュニティーの中でもうまく機能しなくなるということなのです。

房総文明は「環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」文明であり、当然ながら社会的な後押しをするために政府の存在は重要になります。そのため、総合的な理解力と政策立案力を持った政府スタッフを必要とするわけですが、これを担うのがデジタルガバメントのスタッフになります。しかし、デジタルガバメントのスタッフたちは専任の官僚ではありません。なぜならば、第7章で示した通り、房総文明では「自己が所属していることを条件としない」ためです。どういうことかというと、日本文明では政府(省庁や自治体などの団体)に入るためには、専門の試験を突破し、官僚にならなくてはなりません。つまり、所属することが、政府にいることの条件になっているのです。しかし、何度も言うように房総文明ではこの考え方を必要としません。であれば、政府には誰でも入ることができると、考え方を根本的に変える必要があるのです。中国で古来から行われてきた科挙のころからの官僚試験の伝統を考えれば、これは非常に抵抗のある考え方かもしれません。しかし、インターネットの発達によって、このように所属しないガバナンス・マネジメントのやり方は随所に見られるようになっています。例えば、数あるオープンソフトウェアの事例がそれに該当し、このプロジェクトに関与する人々が自主的に様々なルール決めを行い、組織的なマネジメントも何人かのプロジェクトリーダーがネットワーク的に話し合いと試行錯誤を重ねて組織を運営するような方式が多くとられています。このように、所属を伴わないガバメントはすでにインターネットの世界でいくつも実現しているのであれば、房総文明が思想のデジタル文明体である以上、その政府がデジタルガバメントとなる可能性は大いにあるでしょう。そして、そうした房総文明のデジタルガバメントによって、後述するような法の立案と施行や様々な政策が動き出すときに、房総文明は生活システムとしてさらに確固とした存在になるといえると思います。

房総文明と法

さて、今までは政府の側を見てきましたが、今度は社会の規範である法についても考えていかなくてはなりません。近代国家は「法による支配」を前提として作られています。当然ながら、日本国の中には憲法をはじめとして様々な法が存在し、我々を規律しています。房総文明はその超価値を実現していく過程で、こうした法と規律にぶつかる面が多々出てくることが予想されますから、その点をどのように調整し乗り越えていくかをあらかじめ想定しておくことが大事です。これをどのように考えるかということについては、筆者は自然法の存在を再提起していくことが大事だと考えています。法は具体的には、憲法や刑法、民法・・・といった具合に、具体的な法律(条文としてのテキスト)の形をとって社会を規定しているのですが、そもそもそうした法律がどうしてできたのかを考えてみてください。日本だとついつい明治時代にその法的基盤が完成した諸制度が多いため、法は国家が規定するもの、官僚がつくりだすものと考えてしまいがちですが、これは法の支配を考えるときに明確に否定されます。なぜならば、法は社会の要請から作られるものであり、社会の要請とはすなわちわれわれ市民の考えるニーズや思想に基づいているからです。例えば、議会制民主主義の産みの国であるイギリスは、今でも制定された条文憲法をもたず慣例と慣習などに基づいた不文憲法の形をとっています。これは、その時代その時代のイギリス市民の人々が考えることを憲法に取り入れていく意思の表れに他なりません。最終的に、こうした考え方は西洋で古代から存在する自然法の考え方に基づいています。主体を神、自然、人間どれに置くかはいまだに大きな論争があるところですが、とにかく、法の根源を自然法に求める考え方は西洋哲学に共通しています。そして、房総文明もまたこの自然法の考え方を改めて見つめなおすことが必要と筆者は考えています。なぜならば、環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く房総文明において、必要となる法の存在がまだ確かなものではないからです。既存の文明においても各種の環境を保護するための法律、地球を守るための包括的な条約は存在しております。しかし、環境と地球を良くする法というのはまだ人類は手にしたことがないのです。自然法の中にそれは間違いなく存在しているはずなのですが。つまり、そうした法の在り方から議論していかなくてはならず、その後に条文や諸制度が考え出される必要があるということになります。これは、自然法の存在を再提起していくという作業に他なりません。そのため、房総文明では自然法の存在を再提起していくことがとても大事になっていくのです。その上で、現行の日本国政府や自治体などにより規定される各種の法律と競合することが出てきたら、それは上記のデジタルガバメントにおいて調整や修正のための動議を行っていく必要があることでしょう。

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