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第7章 房総文明の樹立とその価値

日本文明と房総文明

本章は、まず日本文明の崩壊危機という背景があって(第3章)、その危機を乗り越えるための新たな文明「房総文明」の在り方・作り方を論じるものです。

第3章で論じた通り、「日本文明は自己が所属するコミュニティーを良くすることに価値を置く」という定義を思い出してください。そして、そのコミュニティーに様々なレイヤーが存在しましたが、そのどれもが深刻な崩壊の危機を迎えていることを見てきました。

2C論を根拠として理論を展開すると、日本文明に対して「超価値」を持つ存在を提示できれば、逆襲の文明として「房総文明」を位置付けることができます。この章では、そうした「超価値」の存在を提示し、日本文明をベースにした新しい文明「房総文明」の姿を浮かび上がらせようというものです。

房総文明は環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く

2C論に基づき、房総文明は日本文明をベースにして、新しい次元の超価値を提起する文明です。そして、「日本文明は自己が所属するコミュニティーを良くすることに価値を置く」のに対して、房総文明は環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置くということに最大の特徴があります。これこそが、日本文明に対する房総文明の超価値です。

第2章では、「日本文明は自己が所属するコミュニティーを良くすることに価値を置く」というコミュニティーベイスドの考え方に着目し、さらに時代が進むごとに日本で進化したコミュニティーのレイヤーと形態を見てきました。そして、第3章では、そうした日本の各コミュニティーが危機に瀕しており、それがゆえに日本文明が崩壊に瀕していると結論づけました。

2C論で、超価値とは旧文明における主流となっている価値観とはまったく別の次元について、人を引き付ける強力で新しい価値を意味するものとしましたが、房総文明の「環境と地球を良くするコミュニティー」というのがそれに該当します。詳しく見ていきましょう。

まず第一に、「環境と地球を良くするコミュニティー」とは何かですが、これは文字通り、環境と地球を良くすることを目的として行動するコミュニティーになります。環境と地球は並列の関係にあり、環境だけとか、地球だけとかを良くすることは除外されます。セットではないと意味がないからです。つまり、「環境を良くしたが、地球は良くならなかった」場合や「地球は良くしたが、環境は良くならなかった」場合は、上記の条件を満たしません。第3章で、環境には“environment”と“surroundings”という二つの英語的訳語が存在することをご紹介しましたが、この二つを同時に満たすには、「環境と地球を良くする」という二者への同時的アクションが必要になるため、両者は並列の関係になります。そして「良くする」とは、現在よりも未来に対して「環境」と「地球」の状況と状態を向上させることを意味します。あくまで、現在の状況と状態とを所与のものとし、そうした状況と状態とを変える、そうしたマインドセットが重要になります。ちょうど、アメリカの西部開拓史におけるフロンティアスピリッツを想定すると良いと思います。あの当時のアメリカ大陸と同じように、ほぼ無限に近く、房総文明には「環境」と「地球」を良くするためのネタ(題材)が現在豊富にそろっています。房総文明はそうした題材に向かって着々と改良と解決の手段を模索し続けなければなりません。そして、日本文明の中で環境問題を憂えるすべての人に向かってデジタル化によって情報を開示し、3C論に基づくコラボと協力を求めればよいのです。

今度は、2C論の「超価値」における「まったく別の次元の」という部分を考えてみましょう。第2章で「日本文明は自己が所属するコミュニティーを良くすることに価値を置く」ことに注目して議論を展開しましたが、房総文明の超価値である「房総文明は環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」は、日本文明の「自己が所属するコミュニティー」という部分が欠落しています。つまり、自己が所属していることを条件としないのです。ここが、房総文明が全く新しい文明である所以(ゆえん)です。つまりどういうことかというと、房総文明は環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置きますが、その文明の中では自己が所属していない環境や地球を良くすることも自動的に奨励されるということです。このことは、日本文明の主流的価値観と決定的に異なる価値観を提起します。くどいようですが繰り返しますと、日本文明は自己が所属しているコミュニティーを良くすることをコミュニティーの構成員に対して促し、もしくは奨励してきました。しかし、房総文明はそれをしません。ただ単に、環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置き、コミュニティーの構成員に対してそれを促し、奨励するのみです。そのため、例えば、自己が所属しないと思われるような環境と地球を良くしたとしても、房総文明では尊敬の対象となりえます。また、逆に「自己の所属するコミュニティーを良くすること」を目的としませんから、仮に自己の所属するコミュニティーが良くならないとしても、環境と地球を良くするという目標に向かって進むことができることになります。構成員の価値観も日本文明と房総文明では明確に異なってくるのです。

ディコンポーズ・イノベーション(イノベーションの発酵分解)戦略

さて、上記で房総文明の超価値を提起してきましたが、今度は実現可能性の面からさらに論述を重ねていきたいと思います。つまり、そんなことが本当に実現可能なのか、ただの妄想にすぎないのではないか?という疑問に答えていかなくてはなりません。ここで、房総文明がその超価値である「環境と地球を良くするコミュニティー」を実現するための一つの戦略を提案したいと考えています。それが、ディコンポーズ・イノベーション(「イノベーションの発酵分解」)という戦略です。ディコンポーズ(decompose)とは、菌や酵素が発酵作用により有機物を分解することを意味し、そのような作用をイノベーションにも適用しようというものです。もし、このディコンポーズ・イノベーションが戦略として実現したら、少なくともしばらくの世紀は、もしくはひょっとしたら未来永劫、房総文明はその価値観を満たすために活動を続けられる燃料を手にするのではないかと考えています。

筆者は第2章で、現代の日本社会に占める会社型コミュニティーの存在の重要性を指摘してきました。そして、第3章ではその日本社会で最も重要な存在を占めている会社型コミュニティーにおいても、環境問題ががん細胞のような存在となって、コミュニティー崩壊の危機に面していると主張してきました。会社型コミュニティーは自社の製品・プロダクトを核にしてコミュニティーを形成し、その製品・プロダクトをひたすら向上させることを至上命題とします。この背景にあって、日本のビジネス領域で毎日のように聞かれるのが「イノベーション」という言葉です。

イノベーションはシュンペーターという経済学者が提唱した概念で、創造的破壊を伴うような革新的な商品の開発・事業の展開を意味すると日本では一般には解釈されています(ちなみに話はそれるのですが、シュンペーターがもともと提唱したイノベーションの概念はもっとマクロな経済学的意味を持つものであり、日本で使用されているような「イノベーション」とは定義の面からでも少なからず差異があるのですが、西洋の概念を輸入して使っている日本のビジネス領域ではこういうことはしばしば発生することです)。

日本の現代社会では、常に、会社型コミュニティーの中で「イノベーション」な製品やサービスの開発に血道をあげており、市場も社会もそのことを奨励し、促進しています。そして、そうした活動により次々と新しい商品やサービスが登場するのですが、一方でそのことがまた新たな環境問題を犯すという負のループも作り上げているのです。

ここで、房総文明は逆にこのイノベーションの連鎖を利用することができるのではないか、という提案がディコンポーズ・イノベーションになります。環境と地球を良くするコミュニティーを持つ房総文明が、積極的に日本文明のイノベーションを利用していくのです。

文明ごみの再利用

例えば、日本でイノベーションの一つと考えられている電気自動車の例を考えてみましょう。もし電気自動車が今後ますます普及すると、電気自動車はモーターを動力として動きますから、必然的にエンジンという動力の価値は下がります。そうすると、未来にむかって、モーター動力の自動車が普及し、エンジン動力の自動車は廃棄されていくのでしょう。注目すべきは、自動車産業は非常に複雑な生産供給構造をしていることです。完成車が出来上がるまでに、数万点を超える部品がさまざまなメーカーによって生産され、組み込まれていきます。しかし、自動車の動力機関であるエンジンがモーターに変われば、それと同時に自動車の部品や構造にも様々な変更が生じることでしょう。そして、それに伴って、大量の設備投資や生産ラインの変更がなされるというのが、産業界におけるイノベーションの醍醐味なわけですが、ここで捨象されている一つの大きな現象を見逃してはいけません。それは、電気モーター自動車に置き代われるエンジン自動車はもちろんのこと、エンジン自動車を作ってきた工場やその工場に部品を供給してきた機械、さらにその機械を作ってきた機械、さらにはその機械に組み込まれていたソフトウェア、さらにそのソフトウェアを開発してきたエンジニアといった具合に、連鎖的に必要なくなるものが発生することです。これらを筆者は「文明ごみ」と呼びたいと思います。これらは現代日本文明の必然から出てくるゴミなので、文明ごみなのです。そして、房総文明はこのイノベーションが起きる度に発生する膨大な文明ごみを資源と材料にして、新しい文明に利用します。それこそがディコンポーズ・イノベーションの原理です。ここで重要なことは、新しいイノベーションを起こすのではなく、あくまでイノベーションの結果によって生じる膨大な文明ごみを利用していくことです。自然環境における虫や菌などの分解者の役割を、房総文明が自ら任じるのです。利用とは、リサイクルのような単純な経済活動には全くとどまりません。何度も言っている通り、房総文明は「環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」文明です。文明ごみはこうした価値を達成するための資源ととらえなおすのです。もしそれが達成できるのであれば、房総文明は日本文明がイノベーションを起こすたびに、逆襲の文明として機能することができます。こうして、日本文明と房総文明は、旧文明と新文明の関係で補完し合えるのです。

房総文明の地理的必要性

日本文明に対する超価値を提供する房総文明という新しい文明を考えるとき、実はその地政学的優位さを抜きにして考えることができません。なぜならば、日本文明の中核は東京という大都市圏にあり、そして、“東京”は日本文明の原動力でもあるからです。

第2章の日本文明を構成しているとコミュニティーに関する議論を思い出してください。原初的なムラコミュニティーから発達してきた、マチコミュニティー、クニコミュニティー、組織型コミュニティー、そして会社型コミュニティーと、これらの姿が全世界に類を見ない形で、結晶化したのが“東京”という大都市圏です。ある意味、日本文明の特徴ともいえる“東京”は、その特異すぎる「大きさ」と「集中度合い」で、どのような世界的な統計調査でも世界一になっています。世界には他にも巨大都市は数多くありますが、これほどに政治的・経済的・文化的といった具合に多角的に機能が集中し、そうした機能をシステム化するかのように巨大すぎる人口が群集して構成される都市は世界的に見ても東京大都市圏をおいてほかにありません。こうした機能的都市システムとしての東京は近代に入り成立しましたが、成立して以降は戦争や災害を除いて、その機能性と支配力を拡大させ続けているというまるで何かの化け物のような圧倒的存在が東京なのです。しかし、第3章でみてきた通り、日本文明を構成してきた各々のコミュニティーは衰退してきており、そうしたコミュニティーの結晶体である東京にも必然的に斜陽が迫っています。

一方で、房総半島は東京都向かい合う形で、本州の東端から太平洋に向かって伸びている完全な半島でありますが、世界最大級の貝塚遺跡が存在するように日本史が始まる前の古代世界では人口の密集地帯でした。そして、上代~古代においても、国分寺遺跡や城館跡を見ても房総半島の地理的な重要性は時の政権によって強く認識されていたことが確認できます。その後、武士の世が来て、ずっと時代が下って関東に徳川江戸幕府が築かれ、それが東京大都市圏になっていくわけですが、半島という地理的な特性から房総半島では東京大都市圏の影響支配下にありつつも“かつて”のコミュニティーが古代から形を変えつつもずっと色濃く残り続けました。“かつて”の、とはコミュニティーの原初的な形態であるムラコミュニティーです。そのことは、房総半島におけるお祭りが今でも各地の神社ごとに根強く続けられていることからも観察されます。本書の目的とそれるためこれは別の機会に社会学的な証明をしなくてはなりませんが、神社は自然の守護者的な社会的位置づけがあり、神社の周りには鎮守の森やご神木等、人間の自然崇拝を呼び起こしていました。自然崇拝は、実は実利的な面も多くあり、農業や漁業、林業などの第1次産業にとっては自らのビジネスの成功を達成するための必要な人間的結束を、神社を中心としたムラコミュニティーが担っていたのです。その歴史的副産物として、房総半島には多くの自然的環境がコミュニティーとともに残されることになりました。こうして、東京大都市圏の近くにありながら、独自の自然環境とコミュニティー文化を残し続けていることが房総半島の特性です。そして、それが房総文明という新しい文明の一番の素地になります。

第3章で論じたように東京大都市圏の中ではコミュニティーの断絶と崩壊が発生しており、それはコミュニティーの中に本来あった人々にも心理的な影響を強くもたらしています。「答えのない時代」などと言われることもある現代ですが、そうした人々の中から日本文明的な生き方とはまた違う生き方や働き方を求めて、今日本全国に散らばり始める人が出現しています。そして、もしも東京大都市圏に最も近いところに、新しい超価値を持つ房総文明が発生したとしたら、それは大きな引力となって超価値に共感し反応する人々が現れる流れができることでしょう。

日本文明に寄生する房総文明思想

さてここで、第5章で登場した3C論にも登場してもらい、2C論と3C論の組み合わせで房総文明の影響度増大に向けた考察を続けていきたいと思います。日本文明をベースにしつつ、まったく別の次元の超価値「環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」房総文明が出現したとき、その黎明期から確立期にかけては2C論で展開した通り、房総文明は日本文明に寄生してその影響度を拡大させていくことになります。この寄生期間の間に、房総文明はその文明の思想的内容を充実させ、人々の生活システムすら包み込めるような存在にならなくてはなりません。そして、重要なことは3C論に基づき、そうした思想と思想の産物をデジタル化していくことです。つまり、房総文明思想のデジタル文明体を作り上げることが必要です。

今の時代、インターネットやSNSの発達により、個人が誰でも好きなようにデジタルな情報を発信できるようになりました。このことは、房総文明を確立するための最適な環境が、今の時代にそろってきたことを意味します。「環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」房総文明の思想をデジタルにして常に発信し続けるだけで良いのです。そうした新しい価値に触れたとき、旧文明の中にいる人々の内心に何か化学変化のようなものが発生し、コラボレーションと協力しようという強力な動機が生まれます。必然的に、房総文明へ参画しようという人が自然と増加していけば、それがますます文明的影響度の増大となって、旧文明である日本文明への働きかけをますことになります。このようにして、房総文明はただその思想をデジタルにして発信し続けることで、日本文明に寄生しつつその影響度を増やしていくことができるのです。

人間の再生

新しい房総文明の樹立は、現在日本中で問題になっている過疎化と人口減少という問題についても、光を投げかけるものとなります。これは、第6章で掲げた4C論をもとにした議論になります。

本章の前半で論じたように、房総文明の思想はディコンポーズ・イノベーションという戦略を中心に組み立てられます。日本文明の中核たる東京大都市圏の中では常にイノベーションを起こす活動が行われていますが、作用と反作用としての結果として、その活動は大量の文明ごみを発生させます。そして、非情なことを申し上げれば、その文明ごみの中に“人間”すらも含まれるのです。

たとえば、最近はやりのAI(人工知能)の発展例を考えてみましょう。人工知能の発達により、今まで人間がやっていたような窓口業務を機械に代行させることがますます増えることが、容易に予想されます。例えば、銀行のATMがますます進化するようになった結果、銀行窓口業務のために雇われていた人々は、もし配置転換などで他のことに従事できない限り、その雇用を守られなくなることが考えらます。AIは大きなイノベーションをもたらしますが、同時に巨大な文明ごみを排出することになるのです。同じようなことは電気自動車が普及した時のガソリンエンジン自動車産業の従事者にも言えますし、自動運転技術が普及した時の運輸産業の従事者にも言えます。日本文明の原理を突き詰めていくと、こうした人々が文明ごみとなることは理の必然と考えられ、同情されることはあってもその文明の原理の中で救済されることはありません。

しかし、房総文明のとるディコンポーズ・イノベーションの中では、そうした人々は光り輝く資源となりえます。なぜならば、分解する対象の原理が分からなければディコンポーズ・イノベーションは機能せず、文明ごみの内容を熟知している人が絶対に必要となるからです。しかし当然ながら、文明ごみとして捨てられる人々についても、房総文明という新しい価値の中で生きていくためには、その生活システムからして新しいものになっていく必要がありますが、それは次章以降で論じます。

話を元に戻すと、房総文明は「環境と地球を良くするコミュニティーに価値を置く」文明です。そして、それはディコンポーズ・イノベーションという戦略によって実現されます。ディコンポーズ・イノベーションには、日本文明が排出する文明ごみを知る人々が必要になります。その結果として、房総文明は文明ごみとして扱われた人々を必要とし、その文明の内部に摂り入れていきます。つまりは、人間の再生を自己の文明の必然性としてシステム化していくのが房総文明の在り方なのです。

4C論で、市民はこれからの時代、自らの文明を選択できるようになることを論じました。日本文明に捨てられた人々、もしくは見切りをつけた人々は、もしその超価値となる房総文明を認めれば、房総文明を選択することができるのです。現在はそうした選択肢がなくて苦しんでいる人々も、選択肢が一つではなく二つになった時、救済される可能性が高まります。

もし、この人間の再生システムとしての房総文明が回り始めたとき、日本文明から房総文明に移ってくる人の増大が結果として予想されます。そのことは、過疎化と人口減少によって悩み苦しむ現在の房総半島にとって、近い未来に必ず希望の光を投げかけることでしょう。

以上が、房総文明の概要であり、日本文明に対する超価値の内容です。次章以降では、本章で掲げた房総文明の思想を実現させるために検討するべきことをまとめ、さらにその解決策の模索を行っていきます。

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