さて、第1章では「文明とは何か」を考察し、第2章では「日本文明とは何か」を考えてきました。この章では、2つのことがテーマになります。一つ目は「文明の崩壊とは何か」ということ。そして、二つ目は「日本文明は崩壊の危機に面している」ということです。

文明の崩壊とは何か

人類の歴史上、様々な文明が起こっていったと一般的に考えられています。第1章で例に出した四大文明もそうですし、他にもローマ文明やインカ文明、キリスト文明やイスラム文明のように使用されます。

こうした文明の起こりはよく話題になりますが、一方で文明の終わりについてはどうでしょうか。帝国と同義だったローマ文明はその帝国が様々な理由で崩壊した際に、インカ帝国はスペイン人に滅ぼされた際に、文明が終わったとみることもできるでしょうが、果たして文明は帝国の崩壊とともに終わったのでしょうか。また、そのように滅ぼされたわけではないが、文明と言われなくなったとしたら、その理由は何でしょうか。例えば、大英帝国とアメリカ合衆国を考えてみると、大英帝国がかつての版図と勢力を持たなくなって久しいですし、世界のGDPの大部分を占める超大国ながらアメリカのことを単一の文明だと考える人は多くはありません。しかし、多くの場合、西洋文明の主たるメンバーとしてイギリスとアメリカはとらえられます。なぜ、イギリス文明はなくなったと思われないのか、なぜアメリカ文明が始まったと思われないのか、その連続性がどのようにとらえられているかということが問題になります。

また、隣国の中国の場合も、文明の捉えられ方が西洋と同じではありません。中国は歴史上、様々な王朝が立ち、支配者が時代とともに変わってきました。しかし、黄河文明をルーツとする中華(中国)文明という位置づけはほとんど変わることはありませんでした。その文明としての連続性はどこにあるのでしょうか。

この文明の連続性という話は、実証的に結論づけることの難しい話で、主張が言いっ放しになってしまう可能性があることを理解したうえで、あえて結論めいたことを言ってみようと思うのですが、文明とは人々の記憶に依拠しているのだと筆者は考えています。記憶が続いている限り、文明は続いていくのです。記憶を残すために、多くの文明では文字や絵画、レリーフや物語などの有形・無形のデータを作り上げました。それらの有形・無形のデータを引き継ぐ人間がいる限り、文明の連続性とは続いていくものではないでしょうか。

このように考えていくと、今度は逆に文明とはそれを維持する人間の存在に依存していることに気づきます。例えば、エジプト文明というと誰しもがピラミッドを思い浮かべるでしょうが、ピラミッドのような構造物・建設物が文明を担っているわけではないのです。現在、ピラミッドのあるエジプト国は、たいていの文明論でイスラム文明に属しているとみなされます。それは、たとえピラミッドがあったとしても、今のエジプトに住んでいる人々がエジプト文明というよりかは、自分たちはイスラム文明の一員と考えていて、他の文明からみてもそのように思われているからと言えるでしょう。

あるいは、マヤやアステカといった文明は、西欧の征服者たちによって、文明を維持する人々が根こそぎいなくなってしまったことから、文明が崩壊したと考えられることも上記の理屈を証明するものであると思います。

そう考えていくと、今度は文明の崩壊とは何かということの答えに近づいていっているように思えます。つまり、文明の崩壊とは、「文明の意思を引き継ぐ人」の存在がいなくなってしまった状態なのです。

第1章で、「文明とは、価値の共有体制として人々の生活システムを包み込むもの」と定義したことを思い返してください。文明の中にいる人々は、その文明を成り立たせている要素を担っている人々でもあります。西洋文明であれば西洋文明なりの、中華文明であれば中華文明なりの、イスラム文明ならばイスラム文明なりの、その文明において価値あるものと思われることに向かって人々は毎日の生活を行っています。

であれば、2つの原因でこうした文明は崩壊の危機に瀕すると仮定することができます。

  • 文明の価値に、(価値がある)と人々がみなさなくなること
  • 文明の価値を理解し、その価値に基づいて生活する人々がいなくなること

このどちらかの状態になると、その文明は崩壊に向かって進行していると言えるでしょう。

外的な要因にせよ、内的な要因にせよ、文明の意思を引き継ぐ人がいなくなった時に、文明もまたその死を迎えるのです。

日本文明の危機

さてさて、ここからが前編の本題に入ってくるところです。

本書のタイトルは「房総文明樹立論」ですが、本書が書かれている背景は、この「日本文明の危機」になります。この背景を理解しないと、房総文明の話も成立しないのです。

では、日本文明がどのように危機に面しているのか、その構造を見ていきましょう。

第2章では、日本文明を「自己が所属するコミュニティーを良くすることを共有体制とし、人々の生活を包み込むもの」と定義しました。

そして、本章の前段で、文明が崩壊の危機に瀕する2条件

  • 文明の価値に、(価値がある)と人々がみなさなくなること
  • 文明の価値を理解し、その価値に基づいて生活する人々がいなくなること

を提起しました。

今、日本では「コミュニティー」が危機に瀕しているため、日本文明が求める「自己が所属するコミュニティーを良くする価値を共有する」ということができなくなりつつあります。そもそも文明の必須要件であった「コミュニティー」が力を失いつつあるため、文明の価値自体も低下し、そのことで文明の危機の2条件に抵触しだしているのです。つまり、日本文明はいま、まさに崩壊の危機に面しているのです。

では、いったい日本のそれぞれのコミュニティーにおいて、何が生じているのか、第2章の分類に従ってみていくことにしましょう。

1)ムラコミュニティーの危機

日本における原始的なコミュニティー形態でもあったムラコミュニティー。しかし、今このムラコミュニティーは確実におそろしく早いスピードで消滅しつつあります。文字通り「消滅」とは消え去ることです。まるで火が消えてしまったかの如く、暗黒が、日本の隅の方から覆いつくそうとしています。

最近、社会でも良く言われている通り、世界最高クラスの少子化・高齢化が日本では進行しており、特に地方においてその傾向が顕著です。急速な人口減少が発生しており、さらには都市部への流出人口が増大したことから、いびつ過ぎる人口構成になった地域は、そもそもコミュニティーが維持できるレベルの若者がいなくなってしまっています。

さらに事態を深刻にしているのは、そういったコミュニティーの担い手が減少していったことにより、お祭りが急速になくなっていることです。第2章で見た通り、祭礼こそがムラコミュニティーの中でPDCAサイクルを回す、日本文明の強さの源泉でした。しかし、その祭礼がもはや日本各地で行われなくなってしまっているのです。

都市部にいる人々にとってこのことは実感が伴わないと思います。しかし、確実に今、日本の地域ではるか昔から連綿と続いてきた祭礼は、その引き継ぎ手がいなくなってしまい、弱体化したムラコミュニティーがその負担に耐え切れなくなり、祭礼自体を中止するようになってしまっています。こうした小さな小さな各地の祭礼が、中止に追い込まれようとも全国的なニュースにはまず流されませんし、マスメディアも注目などしません。そのため、多くの日本国民が知らされない状態で、各地の祭礼がなくなり、祭礼がなくなったことによって、「自己の所属するコミュニティーを良くする」動機がなくなり、最後にはコミュニティー自体が消滅するという事態が起きているのです。なお、本章では深入りしませんが、このムラコミュニティーの消滅は、日本の地域で進行している小学校の統廃合とも密接に絡んでいます。小学校の校区は、地域のムラコミュニティーとの領域と重なりあうことが多いからです。

2)マチコミュニティーの危機

ムラコミュニティーが大きくなって自然に発生してきたマチコミュニティーもまた、今の日本で危機に面しています。マチコミュニティーの危機は、ムラコミュニティーの危機よりももっと複雑な構造を持っています。

ムラコミュニティーは構成員そのものの減少により危機的状況になっていますが、マチコミュニティーの場合、構成員の人数がムラと比べてそこまでまだ減っていなくとも、構成員の参加の度合いが極端に落ち込んでいる状況が観察されます。まず、今まで参加していた人々の参加度合いが落ちてきたこと、そして流入人口の参加をマチが呼び込めなくなったことが原因に挙げられます。

いろいろな理由が考えられますが、大きな理由として、都市化による弊害があげられると思います。高度経済成長期に多くのマチは「都市」になろうとしました。経済優先で人口を増やすことこそがマチの経済を潤すと考えたため、コミュニティーの存在を置き去りにして人を増やし過ぎてしまったのです。その結果、マチで生まれ育った人も、マチコミュニティーへの所属意識を感じられないまま大人になってしまいました。人口が急激に増えた都市ほど、マチコミュニティーへの所属意識が希薄で、その結果次世代を担う若者ほど他の都市へと移ろいやすくなってしまっていることは多くの地方中小都市で観察されることです。そして、自分たちの子供たちが出ていくものだからコミュニティーの祭礼を担っていた大人たちも意気消沈し引き継ぎもおろそかになってしまった。町に流入している人がいたとしても、です。

こうして、マチコミュニティーに所属していた人たちも「自己の所属するコミュニティーを良くする」動機がなくなり、最後にはコミュニティー自体が消滅するという事態が起きているのです。

3)クニコミュニティーの危機

第2章でも触れた通り、クニコミュニティーはムラやマチとは異なる次元のコミュニティーで、もともと特権階級的な人々が所属意識を持っていたある意味特殊なコミュニティーになります。そして、明治時代以降のナショナリズムの高まりを受けて、いわゆる国粋主義的な運動が高まりをみせ、そのタイミングでクニコミュニティーに所属意識を持つ青年層が出てくるわけですが、終戦後は現在に至るまで決して一般的になっているわけではありません。

一方で、右傾化する傾向があるといわれる平成世代の若者たちですが、クニコミュニティーについては、ムラやマチと異なる決定的に危機的状況があります。それは、このコミュニティーに参加している人々が、祭礼のような機会を有しておらず、ムラやマチコミュニティーに見られるPDCAサイクルのような世代間の引き継ぎシステムをもたないため、コミュニティーへの所属意識はあっても、「自己の所属するコミュニティーを良くする」という動機と具体的参加・行動に結びつかないことです。これは日本の政治的貧困にも直結することで、国政に関してクレームは言うものの、具体的行動に結びつかないという事例が多く散見されます。

本来的に、自己の所属するコミュニティーを良くするという働きかけは、ムラやマチの事例を見てもわかる通り、自らの参加と協力そして責任が発生する行為になります。神輿を担がずに祭りに参加できないのと同じように、参加・協力・責任というセットが日本のクニコミュニティーにはシステムとしてうまく回っていないのです。そのために、ガス抜きのように散発的な政治行動に結びついてしまったり、あるいは鬱憤がどんどん溜まっていて爆発的に過激な行動に結びついてしまったりしてしまう結果を招いています。

当然ながら、国という存在抜きにして日本も語れないわけで、この日本のクニコミュニティーの在り方自体がもっとしっかりと考えられるようになればよいと筆者も望んでいます。

4)組織型コミュニティーの危機

特に近現代の日本を牽引したコミュニティーはこの組織型コミュニティーと、次項の会社型コミュニティーと筆者は考えているため、1)~3)のコミュニティーの危機よりも、日本文明崩壊をもたらす直接的な契機は、4)~5)のタイプのコミュニティーの危機と言えます。ですので、これらのコミュニティーの危機はより仔細に注意してみていく必要があると念を押したいと思います。

組織型コミュニティーは組合のような、利害関係の一致する業者者同士の緩やかな連合体であることは第二章で説明しました。そして、現代の日本ではこの組合のような組織の解体が急速に進んでいます。この組織型コミュニティーの解体の原因も、複数の要因が絡み合って進行していると考えるべきですが、発端となっている直接的で構造的な理由は日本の地域経済を支えてきた中小事業者や零細企業が市場から急速に淘汰されていることです。この原因はマチコミュニティーのところで考察した都市化の問題と密接に関係しています。高度経済成長期を経て都市化が日本中で進行した結果、商業はますます大規模に、工業は大量消費大量生産型に加速度的にシフトしていきました。その結果、大資本を持ち過剰ともいえる設備を持っている企業が、その過剰生産力・過剰販売力を武器に、中小事業者や零細企業をマチから淘汰していきました。マチの中のすべての小さな商店を足し合わせたものよりも、はるかに大きな在庫・流通・販売能力を持つ巨大な小売店がロードサイドや駅近ビルに進出し、消費者もそこに直接赴き購入するようになった。この結果、消費者と購入者はそれぞれ同じマチに共存するという関係であったかつてのマチコミュニティーは壊滅していきました。そして、市場経済では大資本がますます力を蓄えるようになり、資本力が小さなものを淘汰するか、もしくは取り込んで吸収するようになりました。

また、インターネット革命とネットワークインフラは、日本の商習慣を根本から変えていっており、「中抜き」という言葉に象徴される仲卸業者の排除を進行させております。ここでも、店舗と仲卸、仲卸と製造者という同じマチコミュニティーで共存する関係性は消滅していきました。世界的に見ても独自性の強かった仲卸の商習慣とビジネススキルは、一般的にはその決済処理能力と物流手配能力にあると考えられていますが、実は「情報処理能力」こそがビジネスモデルの根幹を支えていました。商取引においては、ヒト・モノ・カネなどの様々なビジネス要素の「移動」が発生します。その移動一切を取り仕切っていたのが、かつての仲卸でした。仲卸がいなければ、営業に必要な物品が確保できない時代が日本では長く続いたのです。しかし、大資本に支えられた巨大メーカーと巨大小売店は自前で情報システムを構築できるようになり、仲卸の役割であった情報処理能力を必要としなくなっていきました。そして、インターネットコマースが決定打となり、消費者が製造者や商品取扱者から直接購入することが当たり前となって、仲卸事業者の存在意義はますますなくなり、ビジネス事態の業態変革を迫られる結果となったのです。

ここにおいて、江戸時代急速に発達した日本の商習慣に支えられてきた中小企業のほとんどは今まで通りのビジネスモデルが通用しなくなるか、先細りの状況にあります。そして、それらの中小企業の連合体であった組合も弱体化していったのです。

組合型コミュニティーはその存在意義と目的から、こうした時代の流れに対応しきれないジレンマを抱えています。というのも、大資本をもつ大企業のようにふるまうと、中小企業の寄り集まりだった組合の体系から逸脱してしまいますし、そもそも組合を構成しているメンバーが中小企業の利害関係者のため大企業のようにドライな意思決定することも難しいのです。そうなると、組合型コミュニティーに参加していた人々の「自己が所属するコミュニティーを良くする」という動機自体がどんどん弱くなっていってしまいます。逆に、実際にそうしたドライな意思決定を行って、大企業のような組織に変換した組合の姿もありますが、それはもう組合という名前がついているだけで、大企業と変わらない中小企業との力関係になってしまっています。その場合も、次項で説明するように会社型コミュニティーの危機が迫っており、内部のコミュニティーの弱体化が進行している八方塞がりな状況に陥りつつあるのです。

今までは、組織型コミュニティーの代表事例である組合を見てきましたが、地縁・血縁を離れた結や講や学校といった組織型コミュニティーも現在弱体化の一途をたどっています。これは、商習慣やビジネスの面とは関係が薄い話で、別に研究すべきテーマとなります。しかし、組合と違って、これらの組織型コミュニティーが弱体化した理由はそこまで明確ではありませんし、研究が進んでいない領域だと思います。

その上であえて要因をあげるとすれば、世代間の格差と断絶が、今の日本ではかつてないほどに大きくなってしまっていることに一番の要因があるのではないかと、現在私は考えています。世代間格差については、本書のテーマから脱線するのでここで詳述することは避けたいと思いますが、人口バランスがいびつになってしまったことに起因するものと、景気の変動に起因するもの、という大きく2つの流れがあるのではないかと考えます。こうしたことが原因となり、世代間での格差と断絶が大きくなって、交流が少なくなっていった結果、コミュニティーの維持が厳しい状況に追い込まれていってしまったのではないかと考えるのですが、あくまでこれは推論の度合いが高いもので、今後の研究テーマにしたいと考えています。

5)会社型コミュニティーの危機

そして、最後にして最大の問題である会社型コミュニティーの危機を見ていきましょう。

事実上、この会社型コミュニティーの危機こそ現代における日本文明の危機を起こす決定打になりうるものだと筆者は考えています。ですので、この会社型コミュニティーの危機構造については他のどのコミュニティーよりも注意して仔細に見ていくことにしましょう。

なぜかといえば、前章で見てきたように、明治時代以降に爆発的に成長していった会社型コミュニティーは、日本人のコミュニティー帰属意識の近代化にも大きく寄与してきたからです。そして、会社型コミュニティーは第二次世界大戦後の高度経済成長期で大きな成長をとげ、日本人の総労働人口に占める8割以上の人々が何らかの会社型コミュニティーに属するようになります。つまりは、日本で「普通」の労働者というと「会社員=サラリーマン・OL(パートやアルバイトを含む)」を指し示すようになってしまったのです。今では、「普通」に思われていますが、つい100年ほど前はまではまだ「会社員」は普通ではなかったのです。

わかりやすく単純化して言えば、ほとんどの日本人がこの会社型コミュニティーに属するように現代社会ではなってしまったのですから、逆に言えば会社型コミュニティーに危機的な状況が発生すれば、それはすなわち日本社会、ひいては現代の日本文明の危機であるといえることでしょう。

では、どうして日本において、近現代日本の発展を支えてきた会社型コミュニティーが危機に瀕しているのか、そしてその危機的な状況を作り出している要因は何であるのかを考えていかなくてはなりません。

この点についても、経済学や経営学の分野などで、日本企業のリスクや停滞がさかんに叫ばれているところであり、本屋に行けばその類の本をたくさん見つけることができるでしょう。論点があまりに散逸しては、結論がぼやけてしまう恐れがあるので、ここではそうしたたくさんの要因の中で、より直接的かつ強力に会社型コミュニティーにダメージをもたらしていると筆者が考える要因のみを抜き出して論述します。そして、その要因が次章に続いていく解決策を模索するときのヒントにもなっておりますので、ここは重点的に理解してもらえれば幸いです。

第2章で日本の会社型コミュニティーが、自社製品・プロダクトをコミュニティーが存立するための中心に据え、それをより良くしていくためにコミュニティーが強化されていくという流れを見てきました。ものづくり大国日本として、自動車や電化製品を象徴とした日本の製品は一時期世界を席巻するまでになります。

では、それほどまでに発展発達した会社型コミュニティーと日本のものづくりが危機的状況に陥ってしまっている原因とはなんでしょうか。この問題については、本当にたくさんの原因が経営者や学者や専門家から提起されています。日本はものづくり大国として世界的に見れば大成功したように思われているのですが、肝心の中身の方は内部崩壊が進みつつあるような有様で、そのことを指摘する事実の枚挙には暇がありません。

グローバリゼーションが進む国際社会で競争に負けること、IT技術が進展する中でマニュアル化が進んだこと、さらにはAI・ロボット化が急成長しつつある中で既存のナレッジと人材が急速に陳腐化していることなど、ビジネス誌のテーマにも事欠きません。

しかし、本当にそうでしょうか。

ここで一つ、ぜひ皆さんに考えてほしいのですが、現代の日本文明を支えてきたといっても過言ではない会社型コミュニティーが、それらの要因を克服できないものでしょうか?

いつの時代であっても、組織はなんらかの問題や課題を抱えているものです。ですから、問題や課題が存在していることは何ら危険な状況ではなく、むしろコミュニティーがより良くなっていくための一つの過程として必要な要素であるのです。ですから、今も昔も、会社型コミュニティーは常に多くの問題と課題を抱えてきましたが、それを「うまくやり過ごしてきた」からこそ、現代日本文明の繁栄を見たのです。

こうした話をすると、「では、いったいなにが問題なんだ?」と混乱されるかもしれません。

しかし、現代日本の会社型コミュニティーが危機に陥る決定的な要素がまだあるのです。それがゆえに、世界に類を見ないほどに発展をみた日本の会社型コミュニティーが自壊を始める決定的な理由が。

ではいったい何が?

もう一度、念を押して確認したいのですが、日本の会社型コミュニティーは自社の「製品・プロダクト」を神格化して、これを「より良い」ものにするために、自らのコミュニティーを磨き上げ強化し続けるプロセスを回し続けてきました。そして、それは世界的に見ても、日本文明の特性と思われるレベルにまで高められたのです。

しかし、そうした会社型コミュニティーがますます強化されるにつれて、コミュニティーを構成している一部の人々はある事実に気付き始めていくのです。そして、その気づきは共有され、ゆっくりとしかし着実にコミュニティーの内部に伝染していきました。

それは、自社の「製品・プロダクト」が環境を破壊しているという事実です。

環境問題の深刻さとその破滅的な影響力の強さはいくら誇張しても誇張し過ぎることはないほどです。敏感な人ほど、この事実に耐えられなくなっていきました。なぜ耐えられなくなるかというと、この環境破壊という原因が、すべての、文字通り、すべてのムラもマチもクニも組織も会社も、ありとあらゆるコミュニティーを破壊していくからです。自ら崇め奉っていった製品が、逆にコミュニティーを破壊する要因になっていったのです。

よく環境問題というと、熱帯雨林の減少や砂漠化、工場による公害、自動車の排気ガスによる大気汚染などがテーマに挙げられます。しかし、本書で言っている「環境」とはもうちょっと広い意味で使用しています。「環境」を英語でいうと「environment」と「surroundings」という大きく2つの言葉が訳語で出てきます。通常、上記で挙げたような地球規模の環境問題については、「environment」という言葉が使用されます。そして、私たちの身の回りの生活環境や住環境という意味においては「surroundings」という訳語が利用されることが多いです。この「surroundings」という言葉のもともとの意味は、「わたしたちの周り」という意味の複数形です。つまり、私たちと私たちのコミュニティーを含んだ「周り」を意味する言葉です。「環境」とは私たちのコミュニティーを含んだ「周り」から始まって、その影響範囲が拡大していき、社会全体の問題となり、さらには地球全体の問題となっていった経緯があります。ですので、本書で使用する「環境」という言葉は、広くコミュニティーを取り囲み包み込んでいる「周辺」を意味していると理解してもらえればと思います。

さて、環境問題というのは人類の歴史を考えた場合に、比較的最近に問題になってきたことでした。そしてそれは、会社型コミュニティーの爆発的発達と密接に関係しているものになっています。

人類の歴史が始まって長い間、人間が環境に与えられる影響は、現代社会に比べればはるかに軽微でした。ちなみに軽微というものの、まったく影響がなかったわけでは決してありません。最近の研究では、衰退期にあった文明の多くが深刻な環境問題を起こしていたことがわかっています。しかし、その度合いや影響エリアも現代社会における環境問題に比べればまだかわいいものです。

今日に至っては、大企業もしくは企業群の活動は、地域を超え、国を超え、地球規模で環境を激変させてしまうくらいまでの、大きな影響力を持つようになりました。地球規模で激変させるくらいですから、「surroundings」という意味での環境に対しての影響というのは甚大という言葉でもまだ足りないくらいです。お世辞を抜きにして、地域に大企業が入ってくると、その地域の環境は大きく変わってしまうようになりました。原子力発電所が作られても、巨大な工場が作られても、車を何千台も止められるような商業施設を作っても、地域の環境は大きく変わってしまうようになりました。

ここで注意していかなくてはならないことは、こうした企業活動によって、地域の環境は激変するわけですが、それが受け取り手によって「破壊」とみられるか、「創造」とみられるか見方が分かれていくものであるということです。

原子力発電所にしろ、ショッピングモールにせよ、あるいは大規模な工場にしろ、地域に雇用を創造したり、経済的な波及効果を地域にもたらしたりすることは共通しています。このことから、こうした大企業の誘致を積極的に行っている地域もたくさんありますし、地元の企業の拡大や産業の振興に血道をあげている自治体も日本全国津々浦々にあります。企業によって、大きな雇用が生まれ、地元にお金が落ち、自治体も税収がアップする。一見、すべての人を幸福にするようなフレームワークが整っているように見受けられます。このため、明治以降の殖産興業政策以降、日本のいたるところで産業振興と大企業の誘致は繰り広げられるようになり、それを進めていく側の人間は地域の未来を「創造」するために日夜努力を続けていたのです。

この地域の未来を「創造」することは、会社コミュニティーの中で大きな希望の柱、行動目的となりました。第2章で確認したとおり、会社コミュニティーは自らの製品・プロダクトを神格化し、そのために自らのコミュニティーをより良くしていく方向性を持っていました。そして、コミュニティーの構成員たる会社員たちの多くは、自らの行いによって地域の未来を「創造」していることに生き甲斐とやり甲斐を感じ、また同じ道に向かってすすむ同僚への仲間意識を強めていきました。大変な苦労やストレスがあったとしても、同じように頑張ることのできる仲間の存在を心の糧にして、会社コミュニティーの発展に貢献することを至上命題とすることができたのです。

日本文明が法人という仕組みと会社型コミュニティーを進展させて1世紀あまりがたち、様々な経験と離散集合を経て、日本には世界的な規模を持つ大企業が並び立つようになりました。それに合わせて、会社型コミュニティーの中の行動倫理も整理されていき、日本文明の一構成員としてふさわしいものの考え方・行動の仕方も教育されていくようになります。こうして、現代日本文明を支える会社型コミュニティーの人員は教化され、次々と会社型コミュニティーをより良くしていくために邁進する会社員として世の中に送り出されていったのです。トヨタマンや商社マンと言われるのが典型例です。

しかし、前述したように、企業活動と同時進行して社会問題化したのが、環境の破壊でした。人々の願望と、社会のニーズに合わせて作り出された会社の製品・プロダクトが、今度は大小さまざまな環境を破壊する要因になっている事実が次々と明らかになります。

この環境の破壊自体を嘆く人ももちろん多数いるのですが、もう一つ見逃せない点は、環境の破壊がまわりまわって、日本文明を構成する様々なコミュニティーに致命的なダメージを与えることに多くの人が気づきだしたことでした。

公害問題、地域経済の空洞化、原発事故による放射能汚染、地球温暖化や異常気象など、さまざまな事件・事象が起きたことにより、私たちの環境が悪くなってきていると考えている人はどんどん増えていきました。そして、さまざまな事実が明らかになり、多くの研究が進んでいくと、今度はそうした環境破壊を引き起こしている原因の多くが企業活動に由来していると人々は知ることになりました。

そして、ここからが本章で一番重要な点でもあるのですが、会社型コミュニティーの構成員の中で価値観の対立を起こすねじれが生じるようになります。

会社型コミュニティーの構成員の多くは、地域の未来を「創造」することに対して生き甲斐とやり甲斐を感じていました。しかし、そうした自分たちが貢献していると思っていた活動が、一方で深刻な環境の「破壊」を招いていることを知って苦悩するようになっていったのです。環境の破壊は、身近な住環境を悪化させることもありましたし、遠く離れた国内・海外の地域の人々を搾取することもありましたし、さらには地球全体の環境を悪化させることすらありました。これらのことに心を痛めた人々は、自らの会社型コミュニティーの中で軌道修正を図ろうとします。しかし、自らの製品・プロダクトを神格化し、そのために自らのコミュニティーをより良くしていくという会社型コミュニティーの原義とそれは相反してしまうことが多くありました。また、企業の中には環境破壊を起こさないような製品・プロダクトを模索する方向性もあります。一例をあげれば、自動車の排気ガスを出さないように電気自動車が開発されていますし、原子力発電所の代わりになるように自然エネルギーを利用した発電も盛んに進められています。しかし、こうした代替技術は、環境破壊を起こしていた一部の原因の解決にはなっても、また新しい環境破壊を起こす引き金にもなってしまいました。電気自動車の開発にはレアメタルと呼ばれる希少金属という資源の確保が必要で、このことは世界に新たな資源競争と紛争の種を振りまいてしまっています。また、電気自動車が普及したら、今度はそれだけの電力をどうやって供給するかという問題がついて回ります。自然エネルギーの活用についても、例えば太陽光パネルの設置をめぐって今度は森林環境の破壊が非常に問題になっています。こうした状況を悲観視して、製品・プロダクトを作り出さないことこそ、環境破壊を止める最善の手段とすら考えるような人々が現れるほどです。

このように、環境問題は製品・プロダクトを良くすることを続けていくプロセスでは解決しきれないことに問題の根深さが存在します。そして、それがゆえに、環境問題は会社型コミュニティーの内部でも構成する人々の興味の度合いにグラデーションが広がってしまいました。つまり、一方で環境問題に非常なる関心を持ちその解決のために製品化をしたいと考えるようなグループと、逆に自らの製品群と環境問題とを切り離して製品はあくまで消費者のニーズに応えることを至上命題とし環境問題の解決は政治的な問題と割り切るグループのように、会社型コミュニティーの内部で亀裂を生じてしまうようになったのです。そして、一般的に後者の方のグループが日本の大企業の大半を占め、前者のグループは企業内部で孤立し疎外される傾向にあります。同じベクトルを向いて、強烈なパワーを発揮していた会社型コミュニティーの内部で、価値観の断絶が生じ、コミュニティーの活動と目的に疑問が生じると、会社型コミュニティーの弱体化が観察されるようになりました。製品・プロダクトを良くするために、自らのコミュニティーをより良くするというプロセスがうまく回らなくなっていってしまったのです。

さらに、製品を受容する消費者の消費行動にもこの環境問題は深く影響を与えています。インターネットやSNSの発達によって、情報は世界中を回るようになりました。その中で、例えば日本国内で製品を作らずとも、海外の環境問題を引き起こしていたり、不当な搾取を行っている企業は容赦なく攻撃されるようになってきております。また、投資家や政府・行政関係者もこうした情報に敏感に反応するようになりました。すると、マーケティングなどの結果を通して、今度は製品を作り出す側の方にも、消費者や投資家、政府や行政の反応は伝わるようになります。こうして、社外から社内へと環境問題に対応する感情は伝わっていき、前述したようなグループの疎外が起きる環境はさらに強まっていきます。

近年、会社型コミュニティーでは内部の疲弊が盛んに問題視されています。働き甲斐を見出せず、企業に搾取されるだけと考えるような人々が増えていっているのです。会社に人生を捧げたり、製品の開発に心血を注ぐことに意義を感じなくなった人は、経済的な事由や社会的地位などに優先順位を上げて、会社を選ぶようになります。すると、会社型コミュニティーの内部では、会社型コミュニティーをより良くしたいと考える旧来型の人々と、会社型コミュニティーをより良くすることにそこまでの意義を見出せず個人的な事柄や会社外の活動に精神を注ぎたい人々が分かれることになります。もちろん、会社型コミュニティーの黎明期からそうした人々の意識の差異はあったはずですが、問題はその割合です。会社型コミュニティーがかつて「神輿」として担ぎ上げた製品・プロダクトはその新通力を確実に減少させています。そうすると先ほどのグループわけで、会社型コミュニティーをより良くしたい派だった人々の主張も弱まっていきます。あるいは、説得力に欠けると思われていきます。そして、会社の製品よりかは社内文化や風土、働きやすい環境などに会社の資源が割かれていくようになります。このように話をしていくと、まるでそのことが悪いことのように主張しているようですが、会社の資源というのはあくまで有限なものと考えなくてはなりません。かつて、日本の会社型コミュニティーが「モーレツ社員」を典型とし、社員の労働環境や健康や社会活動など二の次にして製品の開発競争に明け暮れることができたのは、あくまで製品・プロダクトを神輿にしてそれを担ぎ上げ、その製品のために会社型コミュニティーをますます良いものにしていくという動機が働いたからと考えるのが自然なことでしょう。

以上で見てきたように、環境問題は近現代日本文明を主導的に支えたといっても過言ではない「会社型コミュニティー」は環境問題によって、致命的なダメージを受けつつあります。

そして、それはがん細胞のように徐々にですが確実に体制を蝕んでいっており、いつの日か、その亀裂が決定的なものとなったその日に、日本文明を絶命に至らしめるのです。

上記の私の主張は、環境問題が現代社会における最大の問題と認識している方には、同意を得られることも多いのではないかと思います。しかし一方で、私が主張していることは、一部の人にとっては大げさに思われるかもしれません。一部のとは「環境問題が会社型コミュニティーを崩壊に至らしめることはない」というものです。実はこの主張と、私が今までに述べてきた主張とは対立的ではなく、並立的にあることを改めて強調しておかなくてはいけません。本章で問題にしている原因の根本は、環境問題が本当に会社型コミュニティーを崩壊に導くか、という検証ではありません。問題の根本は、会社型コミュニティーを環境問題が引き裂くことであり、環境問題に対するスタンスによって、会社型コミュニティーの内部が分裂することにあります。つまりは、「環境問題は会社型コミュニティーを崩壊に導く」という言説と、「環境問題はそこまでの影響を会社型コミュニティーに与えない」という逆説の両論が提起され、そのどちらもが今の現代日本社会の中で支持を集めるようであれば、私が本章で述べている会社型コミュニティー崩壊の事態が徐々に進んでいる証明となるのです。

そして、その主張的対立は、陽極と陰極からなる磁力を持ち始め大きな渦を作り出します。磁石は陽極と陰極が同じ力を持ってバランスしますが、今の日本文明はその力がバランスせず、どちらかの極に振り切ってしまうことで、もう一方の極は退廃し、さらにその結果、磁石そのものがバランスを失って崩れ落ちてしまうことになるのです。

本章では、ムラ・マチ・クニ・組織・会社という5形態の日本文明を支えたコミュニティーの危機を見てきました。これらの危機が組み合わさって、さらに大きな危機が巻き起こり、危機はどんどんと成長し大きなものになっています。

では、どうすればよいのか。

日本文明が崩壊しつつある中で指をくわえてみているしかないのか。

あえてその崩壊を認識し、その未来を見据えたうえで、筆者はまだできることがあるのではないかと考えました。

その答えとして、私が考えたのが「房総文明」というまだ見ぬ文明の姿になります。

そして、それが成立するためには、新しい文明の作り方と在り方を考えなくてはなりません。かつて、物理学者アインシュタインは「未解決の諸問題は、それを作り出しているのと同じ意識のレベルでは解決することができない」という言葉を残しました。つまりは、問題の解決のためには、新しい意識で臨まなければならないということです。

その新しい意識をどのように実現するか、私の問題意識はそこにありました。次章では、日本文明の崩壊を見据えた上で、新しい文明である房総文明をいかにつくりだすのか、その骨組みとロードマップとなりうる理論を提唱していきます。

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